東北学院大学 工学部 機械の同窓会です。

1505三居沢水力発電所物語

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[さんえる43号]

~東北にあかりを灯した~ 三居沢水力発電所物語

鶴本勝夫(第1回生)

 はじめに
平成26年(2014)6月に、群馬県の富岡製糸場およびその関連施設が、世界遺産に登録された。翻って宮城県の近代化遺産を顧みると、その原点は三居沢にあり、それは宮城紡績会社・三居沢発電所および三居沢カーバイド製造所によって構成されていた。本稿では「白河以北一山百文」と軽視され続けた東北に、新しい息吹をもたらした先人らの業績とその先見性について振り返ってみる。

(1)菅克復と仙台

宮城紡績会社を創設、開業した菅克復(かんこくふく)は、もともと一関藩士である。仙台藩13代藩主伊達慶邦に嗣子がなく、支藩である一関藩より田村茂村を迎える際に、菅は側用人として仙台入りした。実はやむを得ず仙台にやってきたのである。

図1 菅 克復
図1 菅 克復

菅は「鶏口となるも、牛後となるなかれ」の考えで、「一関藩にいればそれ相当の働きができるが、大藩である仙台藩にいっては自分を活かすことができない」として仙台行きを拒否していた。しかし、茂村は「それでは自分も仙台に行くのを断る」と云いだしたので、やむなく仙台行きを決心したという。ときに茂村13才、菅28才であった。(図1)。
*伊達茂村 は慶応3年(1867)6月、18才で逝去。大年寺に葬られた。法名「諧考院殿恭山通謙大居士」。菅克復は70才に及ぶまで茂村君の命日には、風雨をいとわず1日たりとも参拝を欠かすことはなかったという。その忠誠の志は世の亀鑑といわれた。

(2)宮城紡績会社設立の経緯

明治維新となり、仙台藩は65万石から28万石に減封され、士族らの生活は困窮を余儀なくされた。菅克復は士族救済の一助となればと考え、仙台北三番丁の自宅の一角に機業場(きぎょうじょう)を設け、婦女子のための授産場(じゅさんじょ)としたのである。仙台では菅のほかに4~5ケ所の機業場があり、なかでも丹野彦三郎が経営する機業場は清水小路にあり、最も大きかった。丹野は仙台の西部、滝前丁に自宅があり広瀬川を眼下にみて早くから「水力の利用を考えていた」という。この発想が、後の機械式紡績や水力発電の導入に連動していくことになる。
明治政府は外国産綿糸の輸入を食い止めるため、イギリスより13台の紡績機(1200錘)を導入して、全国に適宜配置しようと考えた。宮城県にも1台優先的に配置するとの呼びかけがあったが、戊辰(ぼしん)の役で疲弊しており、有望な資産家は少なく躊躇していた。宮城県では、かねてより機械式紡績に関心を寄せていた丹野彦三郎に相談したが、話はまとまらず、沙汰やみとなってしまった。しばらくして丹野は、大阪の堺紡績所が業績不振のため、「機械式紡績機を放出する」との動静をつかんだ。これを是非仙台で受け入れ、機械式紡績会社の設立につなげたいと考え、宮城県と折衝し始めたのである。ときに明治12年(1879)のことである。
丹野は宮城県に対して、機械式紡績所の実態を把握するため、工部省赤羽工作局(水車)、四谷勧農局試験所、鹿島紡績所、紀州機業場などへの見学許可申請書作成および旅費の前借りを依頼している。紡績機購入に際しては、宮城県は宮城郡長の菅克復を代表に指名、資金協力して、宮城紡績会社の設立にこぎつけたのである。宮城紡績会社の初代社長は、郡長を辞した菅克復である。宮城紡績会社の設立は明治16年(1883)11月、操業は翌明治17年(1884)であった。

(3)宮城紡績会社の概要

 丹野彦三郎が国内の紡績関連施設を見聞したのをもとに、宮城紡績会社が設立された。建屋は宮城県の建築技師として招聘された山添喜三郎が設計、監督している。山添は、パリで行われたウイーン万国博覧会で、日本の館パビリオン建設責任者として活躍している。また山添は、宮城県の登米尋常高等小学校などの建築を手がけ、建築史にその名をとどめている。(図2)。

図2 山添喜三郎
図2 山添喜三郎

 宮城紡績会社は水車駆動のため、三居沢の烏崎下を取水口とする「烏崎隧道」を開削している。この工事は早川組(代表:早川智寛)が担当した。宮城紡績会社の建屋は、南北に15間(25m)、東西に25間(45m)の平屋である。
隧道より流入する水路には、工部省赤羽製作局製の縦軸型フルネイロン水車(40馬力)が取り付けられ、各種紡績機械の動力源となった。(図3)。

図3 宮 城 紡 績 会 社
図3 宮 城 紡 績 会 社

紡績所には打綿機1台(綿花を強くたたいて分解し、不純物を取り除いて均斉度の高い 綿帯をつくる)、カード5台(梳(そ)綿機(めんき)の働きに相当、無数の針で綿の総をすくって、繊維を一本、一本に分離する),練(れん)篠機(じょうき)1台(繊維の縮れを伸ばし、全長にわたって並行にして揃えるようにする)、始紡機1台(粗紡機の1つ、太糸を引き伸ばして中糸にする)、練紡機2台(中糸を細糸にする)、ミュール精紡機4台(粗糸を所望の細さに引き伸ばし、用途に応じてよりをかけ、均質な単糸に仕上げる)、据え付けられ、16番手糸を生産していた。

(4)第1・第2発電所

 宮城紡績会社は開設以来、経営に関しては菅克復が、技術に関しては丹野彦三郎が中心と なってきたが、機械技能者が少なく、しばしば紡績機械の保守、管理には先行き不安があった。ミュール精紡機の換歯車さえ交換できず、紡錘は当初の2000錘が1000錘まで減少するにまかせていたという。作業員には八幡町周辺の婦女子も加わっていた。以上のことからも、宮城紡績会社の業績不振は必然であった。菅は事業立て直しのため、宮城郡長であったことの立場を存分にいかして、宮城郡内の小学校の積立金を借り受けたが、回復せず崖っぷちに追い込まれていったのである。
丁度この頃、すなわち明治20年(1887)12月に東北本線が開通、「東京では夜に明かりが灯された」との知らせを耳にして、その実状調査に乗り出したのである。菅克復は同行者4名とともに上京、アーク灯の「夜なお昼の如し」の光力の威力をじかに感じとったのである。「会社でも夜間操業すれば、宮城紡績の不振も挽回できるのでは・・・」と菅は考えた。その後、ときの日銀副総裁富田鉄之助(宮城県出身)に相談してみるが、「時期尚早」と反対された。しかし、菅はひとり東京に残り、藤岡市助設計の5kw直流発電機1台、アーク灯1灯、10燭光電球50個を三吉電機製造に注文して帰仙したのである。(図4)。

図4 5KW直流発電機(藤岡市助設計)
図4 5KW直流発電機(藤岡市助設計)

明治21年(1888)7月1日、宮城紡績工場の照明電源用として設置した5kw直流発電機の運転に成功した。自家用発電とはいえ、日本初の水力発電であり、現在、水力発電関係の専門書では冒頭で紹介されている。因みに三居沢電気百年館の前庭には「水力発電発祥之地」の碑が建っている。(図5)。

図5 「水力発電発祥之地」の碑
図5 「水力発電発祥之地」の碑

以上の試験点灯では、予告なしで行ったためか、烏崎に取り付けたアーク灯が煌々と輝くあまり、三居沢の対岸にあたる山上清水の人々は、「キツネ火だ!」と叫んで、大騒ぎになったという。電気に関する予備知識があるはずもなく、町の巡査を呼んで、ことの真相をただしたという。菅らはこの工場照明により事業回復を目指したが、やはり思うにまかせず新事業転換のときと捉え、電力供給による事業立て直し、即ち、水力発電による事業展開を考えるようになった。これを後押しした背景に
は、次のような問題も抱えていたのである。前項にも記したように、宮城郡内の小学校から前借りした積立金の返済が不能となり、裁判に訴えられたのである。(内容の概略については当会報「さんえる」第10号に詳しい。)2年間の裁判をへて宮城控訴院(現仙台高等裁判所)は無罪の判決を下し、借金は返済しなくてもよいことになった。(図6)。

図6 宮城控訴院・判決正本
図6 宮城控訴院・判決正本

明治27年(1894)7月、仙台市へ送電するため、従来の40馬力水車に30kwの交流発電機(三吉電機製造製)を接続、同時期に設立された仙台電燈(社長佐藤助五郎)に売電して、仙台の365戸に供給した。

図7 第2発電所跡
図7 第2発電所跡

第1発電所の誕生である。 第1発電所の稼働とともに、電灯の明るさ、その光力は生活を一変させる事件となった。仙台の著名な旅館の女将が、「電気は何からとるの?」と質問すると、勧誘員は「広瀬川の水からとります。」と答えたところ、「それはなんと恐ろしいことか!」といって、申込みを断ったという。自然現象によるたたりが怖いという迷信がなお根強い時代であった。電力需要の増大にともない、第2発電所の建設が急がれた。明治33年(1900),現在の電気百年館のところに完成した。発電機は三相交流300kw・2基(シーメンスハルスケ社製)、2200V。水車はフランシス式シングルタイプ。有効落差48尺(14.5m)。取水口は広瀬川放山付近で、導水路は600m。(図7)。

(5)藤山常一、仙台へ

 第2発電所の稼働により、余剰電力の使途が検討されはじめた。宮城紡績電灯会社の技師長に招聘された藤山常一は、東京帝国大学電気工学科出身で、電気応用を得意としていたことから、カーバイドの国産に着目した。明治の前半日常生活に欠かせないカーバイドは外国産に押され、国産でなんとかいかないものかと注目されていたのである。(図8)。

図8 藤山常一
図8 藤山常一

既にカーバイドは、アメリカでは実用化し、日本に輸入されていた。これまで藤山は机上論として頭をふくらませていたが、想像の域を出なかったのである。全く新しい金属化合物を見出すときと同じように、即ち、元素の組み合わせは、真砂の中に真珠を見出すのと同じように、当たり外れの多い山師的研究であることが予見されたのである。藤山は製法について 指導はしても、自ら手を下すのではなく、その配下に徳永房一という同郷の人間を活用したのである。藤山と徳永との関係は次の通りであったと推測される。
藤山常一は佐賀県神埼郡唐香原出身(父藤山種広は、佐賀藩のガラス工芸に秀でた技術者)で、藤山と徳永の出会いは東京にあった。藤山は5人兄弟の長男で、弟の不二は東京帝国大学工学部教授、機械工学が専門であり、著書出版の関係で徳永が勤めていた「博進社」と関係していた。技手を必要としていた藤山は、不二を通して仕事熱心で勤勉な徳永が紹介されたのである。 藤山はカーバイドの試作には、徳永のような人間が向いていると判断、独身であった徳永を仙台に呼び寄せたのである。(図9)。

図9 徳永房一
図9 徳永房一

 カーバイドの試作は、初めは藤山の屋敷で行われた。血のにじむような実は疲労困憊し、しばしば藤山の自宅の玄関先にある松の木に「首をかけそうになった」と、妻のとく(筆者の大叔母)が懐古している。カーバイド試作用の電気炉の内壁は、三居沢周辺の山でとれた玄武岩で囲い、石灰は一番町の資生堂から、炭は八幡町の薪炭屋から購入したという。ただし、電極のカーボンは輸入ものであったという。
 やっとの思いでカーバイドの一塊が出来上がり、お披露目のときがやってきた。宮城紡績電燈会社の伊藤清次郎社長らも招待されていた。カーバイドの塊にロートを逆さまにして置き、その口先から水をたらして点火すると、発生したアセチレンガスに引火して爆発、勢いよくロートが伊藤の顔面に向かって飛んで行ったという。藤山は自分の考案したカーバイドができたことを喜び、伊藤をよそ目に小躍りしたという。カーバイドの実用化に見通しが得られた瞬間であった。明治35年(1902)のことである。これを契機として、これまでカーバイド研究をともにしてきた東京帝国大学電気工学科の同窓生・野口遵(したがう)、市川誠次および宮城紡績電燈社長伊藤清次郎らの支援を受けて、「三居沢カーバイド製造所」が設立されたのである。
以上の経緯から、三居沢はカーバイド工業の発祥地であり、この事業は現在、電気化学工業(略称DENKA)などの企業に引き継がれている。(株)DENKAは、平成27年(2015)、創業百周年を迎える。
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 [三居沢電気百年館の案内人から「藤山常一の墓はどこにあるのか?」と尋ねられたことがある。藤山常一の弟にあたる藤山文三の孫、藤山大介氏から連絡があり、青山墓地であることが分かった。実際に墓地を訪ねると、墓石には法名は彫られておらず、顕彰碑がそばに建てられていた。]
 その後、日本機械学会九州支部大会の折、徳永房一の墓地もたずねた。筆者の大叔母にあたる徳永とく、その長女かつ子の墓前にのぞみ、感慨をあらたにした。ここで1つの発見があった。案内していただいた徳永豊次氏の配偶者が、藤山常一の姉、貞の子孫であったことである。カーバイドの試作にかかわった藤山と徳永の縁者が1つの家庭を営んでいたのである。 筆者が徳永豊次氏のお宅を訪問したとき、珍しく庭先に白鶴が舞い降りたのである。「こんなことは今までにないことだ」と、驚いていた。応接間の天井近くには徳永房一夫婦が住んでいた家屋周辺の航空写真が掲げてあり、これをながめていると、長い時間的空白がいくぶん埋められたような気がした。

 (6)第3発電所

 益々需要は増大、新しい発電所の建設が急務となってきた。これが今日も稼働している1000kw出力の発電所で、第2発電所の西隣に建てられた。発電所の建設並びに発電設備のシステム設計・施行管理は、太田千之助が担当している。明治42年(1909)5月、発電を開始している。この発電所の取水口は、広瀬川郷六堰で、水脈は暗渠を通して三居沢の溜池に通じている。「青葉隧道」と称しているものである。隧道工事は、仙台石切町(現青葉区八幡二丁目)の小梨政之助が請け負っている。発電所の溜池より、導管を通して一気に落下させ、ドイツ・フォイト社製2軸単流前口の水車を回し、シーメンスシュッケルト社製の三相交流発電機を稼働している。(図10)。

図10 第3発電所 (現在稼働中)
図10 第3発電所 (現在稼働中)

現在稼働している第3発電所は、東北電力㈱仙台技術センターの制御室より遠方監視され、無人運転されている。三居沢電気百年館の前庭には「水力発電発祥之地」の碑があり、東北に初めて明かりを灯した記念すべき史蹟となっている。最近、仙台市営交通観光「るーぷる」バスの観光コースに組み込まれ、「三居沢水力発電所」のバス停留所が設けられ、電気百年館への見学者が絶えないという。

(7)三居沢不動尊のこと

 三居沢発電所の西隣に、三居沢大聖不動堂がある。本堂裏にある滝は、昔は流量も多かったが、現在はいくぶん少なくなっている。境内は
日中でも薄暗く、一人で中に入るには勇気がいる。
滝のそばには石仏の不動明王が座し、手前には献灯台があり、絶えずローソクが灯されている。かつては、不動明王信者が白い法衣をまとい、滝にうたれているところを何度か目にしたことがある。一般に、不動明王信者の信仰は篤いといわれる。(図11)。

図11 三居沢大聖不動堂
図11 三居沢大聖不動堂

 あるとき、この不動尊のいわれについて堂守のおばさんに尋ねたところ、「そんなこと聞かれても分からない!」と怒られそうになったことがある。境内には隠れキリシタンの供養碑や、江戸時代以前の標石があり、いつごろから不動尊信仰が始まったのか、関係者も分からないでいる。そんなこともあり、大正、昭和前期の頃は、この不動堂の管理を、三居沢発電所の職員が代行していたという。現在は、町内の庄司恒治氏が管理責任者となり、法事は愛宕下・西光院に依頼しているという。堂内正面には不動尊像が安置されており、毎年5月28日には例大祭が行われている。この不動尊は酉年生まれの人の守り本尊で、目の病をもつ人の参拝が多いという。また、境内には「子安観音堂」もあり、早世した子らの霊を祀っている(図12)。

図12 三居沢不動尊像
図12 三居沢不動尊像

 堂内には東北電力の前身、東北配電仙台営業所の殉職者の位牌があり、境内には大正年間に発電機を据え付けたという記念碑がある。また、この碑の前面には、仙台市長鹿又武三郎の揮毫になる「大聖不動明王」の字体が彫られている。この碑と並んで、不動尊の由来を示す石碑もたっている。
 以上のことから、三居沢不動尊と発電所もそれなりに関わりがあり、不動尊も発電所に付随する史蹟として、記憶にとどめておく必要がある。秋になると、眼前の広瀬川河岸では芋煮会で賑わう。タイミングをみて、電気百年館や不動堂を訪ねてみては いかがだろうか。

(8)仙台市に移管、その後

 電力事業の拡大に伴い、私企業として維持管理することが困難となってきた。明治45年(1911)12月を期して、仙台市に移管することになった。仙台市と宮城紡績電燈社長伊藤清次郎との間で、譲渡に関する折衝が行われた。譲渡費については種々紆余曲折を経たが、東京帝国大学教授山川義太郎(工学博士)の示した裁定額で妥結したのである。三居発電所は仙台市に移管後、東北配電㈱をへて、昭和26年(1951)5月、東北電力㈱として新しくスタートした。

図13 山川義太郎
図13 山川義太郎

宮城紡績会社は明治末年まで存立、下野紡績創業者・野沢泰治郎が
経営する東京製綿㈱に貸与された。建物は大正15年、仙台市から払い下げとなっている。
(図13)
三居沢カーバイド製造所は、伊藤清次郎を社長とする山三カーバイド(株)として存続した。また、カーバイド製造に関する技術は改良に改良を加えられ、日本カーバイド商会、日本窒素肥料㈱、北海カーバイド㈱へと展開し、現在、電気化学工業㈱、チッソ㈱などの企業へ継承されている。

(9)宮城の近代化遺産として

 現在刊行されている水力発電に関する書物では、三居沢発電所が日本初の水力発電所として紹介されている。また、カーバイド事業も三居沢が日本カーバイド工業の発祥地として紹介されている。発電所は次のように登録されている。
(1)登録有形文化財(文化庁、平成11年月23日)、(2)都市景観賞(仙台市、平成13年1月26日)、(3)機械遺産(日本機械学会、平成20年8月7日)、(4)近代化産業遺産(経済産業省、平成21年2月23日)。
以上4件が認定登録されている。ただし、東北電力(株)の起源となった宮城紡績会社については触れられることはなく、せめて標識の設置を、早々に望むものである。宮城の近代化遺産は、三居沢において進められた三事業所、即ち、宮城紡績会社・三居沢発電所及び三居沢カーバイド製造所で構成されており、電気百年館前にこれら3社の所在位置を示す鳥瞰図の設置を切望している。

むすび

東北に明かりを灯した三居沢発電所は、これまでの経緯を辿ると、東北に限らず日本の工業界に多大な貢献をした出発点となっていたことがわかる。筆者ら仙台近郊にすむ者として、認識を新たにするものである。
丹野彦三郎の先見性が、官吏菅克復を動かして宮城紡績会社の創設に至り、その事業が苦境に立たされた結果として、皮肉にも日本初の水力発電に成功するなど、思いがけない方向に事業が展開されていった。電力需要の増大に伴い発電所の増設へと進み、余剰電力の効果的活用の一つとして、カーバイド事業が提案されるなど、画期的なものであった。既述の通り、三居沢で行われたカーバイドの試作研究は、東京帝国大学電気工学科卒の仲間・藤山常一・野口遵・市川誠次と藤山の技手・徳永房一らで行われ、宮城紡績会社社長・伊藤清次郎も協力を惜しまず、その推移を見守っていたのである。
宮城県の工業史の観点からも、宮城紡績会社、三居沢発電所、三居沢カーバイド製造所の設立経緯および先人らの先見性を再考証することも、今後の宮城県の工業の発展には欠かせない要素と思われる。

補 遺

 '”三居沢におけるカーバイド試作研究に立ち合った人々”
仙台市青葉区三居沢は、日本のカーバイド工業発祥地であることは、大変誇らしいことであるが、筆者はこの事実を仙台市民ないし宮城県民が十分認識していなかったことに驚いている。なるほど、明治時代は宮城県が工業先進県であったにもかかわらず、停滞を余儀なくされた理由がここに諒解される。カーバイドは窒素肥料、人工繊維そして調味料など、今日のチッソ(株)に至る一連のプロセスには目を見張るものがある。詳細は別途資料に譲ることとし、カーバイドの試作研究が、藤山常一や徳永房一らのみによるものではなく、野口遵、市川誠次および伊藤清次郎らの協力によって進められていたことが最近明らかになってきた。
以下に、三居沢で協力しあうまでの先人らの履歴を記す。

(1)藤山常一
 藤山常一は明治5年(1872)1月9日、佐賀県神埼郡唐香原に佐賀藩士藤山種広、清(せい)の長男として出生。父は幕末から明治にかけて活躍した技術者である。特にガラス工芸、印刷、鉛筆製造などに顕著な実績を残した。(図14)。

図14 藤山常一 像
図14 藤山常一 像

 藤山常一は、明治31年(1898),東京帝国大学電気工学科を卒業した。藤山は電気応用に関心が高く、卒後、九州方面で捕鯨に関係した。モリで命中した鯨の暴走を防ぐために、綱伝いに電気ショックを与えて瞬時に停止させる方法である。しかし、思うに任せず失敗して解雇の憂き目にあい、東京周辺で息を潜んでいたところ、当時、福島県郡山電燈の技師長をしていた大学の同窓、野口遵の紹介で、仙台電燈(伊藤清次郎社長)の技師長に斡旋されたのである。藤山は藁をもつかむ心境であったはずである。余剰電力について伊藤より相談を受けていた野口も、電気応用に関心があり「渡りに船」とばかり、かねがね思案していたカーバイドの試作を思いつき、藤山に提案したのである。(図15)。

図15 藤山常一 墓所
図15 藤山常一 墓所

藤山常一は東京に出ていた同郷の徳永房一を技手として仙台に呼び寄せ、早速カーバイドの試作に心血を注いだのである。石灰、木炭の調合や、電気炉による熱管理などの指示は藤山が出し、実際の実験は徳永が担当したのである。数多くの試行錯誤をへて、やっとカーバイドの一塊が出来上がり、後に量産化に成功して「三居沢カーバイド製造所」の設立をみたのであった。
 *藤山常一は、昭和11年(1936)1月4日逝去。行年65才。法名なし。青山霊園に眠る。墓域には顕彰碑が建っている。大正2年(1913)11月22日「炭化カルシューム製造法の研究に対する功績」で、日本電気学会より金牌受領。

(2)徳永房一
 徳永房一は明治10年(1877)3月28日、佐賀県神埼郡神埼町大字尾崎に、徳永又七、ナヲの三男として出生。母ナヲは房一が7才のとき、父はその2年後に亡くなっている。神埼郡西郷高等小学校卒業後、同村の寺院に入り、仏教学を学ぶ。明治27年(1894)、京都市油小路仏教図書出版㈱に入り、2年後東京市小石川区久堅町「博進社」に入社した。明治35年(1902)11月退職、12月より仙台市三居沢で藤山常一のカーバイド試作に従事する。
前項に記した通り、藤山常一と徳永房一の出会いは、常一の弟・不二の紹介によるものであった。藤山不二は、東京帝国大学機械工学科を優秀な成績で卒業、恩賜の銀時計を受領している。卒業後、同大の教授となり、田中芳子の婿となっている。専門は、機械工学一般及び熱工学で、徳永の勤める博進社と著書出版の件で関係していたと思われる。藤山常一がカーバイドの試作にあたり、技手を必要としていたところ、不二は、常一と同郷であった徳永房一を、その働き振りから適任と思い紹介したのだった。
徳永房一は仙台に来ると、明治36年早々に、三居沢にほど近い八幡町で茶屋を営む鶴本平吉とはるの次女とくと出会い、明治37年(1904)6月結婚している。徳永の履歴によれば、明治37年(1904)4月三居沢にカーバイド製造所を設立し、カーバイド製造庶務主任を命ぜられている。以上の経緯から明らかのように、徳永とくは、筆者の大叔母で、当時としてはなかなかの美人?であったことがうかがわれる。房一の長女かつ子は、戸籍上明治37年(1904)9月30日となっているから、勘定があわないのはどうしたことか。(図16)。

図16 徳永房一・とく夫妻
図16 徳永房一・とく夫妻

[かって藤山常一の弟・田中不二の著書を古書籍展で発見、思わず驚きながら、購入したのを覚えている。内燃機関が専門の内山最一郎との共著で、「機械設計及製図」(明治39年4月15日刊)である。]
 *徳永房一は、昭和31年(1956)9月29日逝去。行年79才。法名は「釈誓祐信士」。墓は佐賀県神埼郡唐香原の真正寺。明治43年(1910)11月1日「カーボン原料の調合法考案」で,日本窒素肥料㈱より褒賞金三百円受領。大正4年(1915)12月10日「接続金具付カーボン電極の考案」で、電気化学工業㈱より褒賞金七百円受領。

(3)野口 遵
 野口遵(したがう)は、明治6年(1867)7月26日、金沢に野口之布(ゆきのぶ)、幸の長男として出生。野口は東京御茶ノ水の東京師範学校、東京府立中学校(日比谷)をへて、明治21年(1888)年2月第一高等中学校に入学した。同校には小泉八雲や落合直文らがいた。また同窓生には本多光太郎がいた。明治26年(1893)7月、東京帝国大学電気工学科に入学、同期生には後の事業推進に際し片腕となった同郷(金沢)の市川誠次がいた。明治29年(1896),帝大を卒業。
 野口遵は大学を卒業すると、福島県の郡山電燈会社に技師長として赴任した。2~3年、同所に滞在している。この間、東京帝国大学電気工学科出身の藤山常一を、伊藤清次郎の依頼に呼応して、仙台電燈会社の技師長に紹介している。

図17 野口遵
図17 野口遵

これを契機として、共同でカーバイドの試作研究がはじまった。しかし野口は、父之布の死にあい、地方都市にとどまることを諦め上京、ドイツのシーメンスシュッケルト社東京支社に就職した。以後、歴史に残る活躍をみるが、「野口遵翁追懐録」(昭和27年9月10日刊)を参照されたい。(図17)。

 *昭和19年(1944)1月15日逝去。行年72才。同年1月22日東京青山斎場で、市川誠次祭主、日本窒素社葬のもと葬儀が行われた。日蓮宗・池上本門寺に眠る。法名は「本光院殿修徳興道日遵大居士」。昭和17年(1942)5月5日。日本政府より従四位勲一等瑞宝章を授与された。
                                    
(4)市川誠次
 市川誠次は野口遵と同じく金沢で、市川積善(みつひろ)と鶴の次男として、明治5年(1872)7月11日出生。8人兄弟。市川は第4高等学校本科二部工科をへて、明治26年(1893)東京帝国大学電気工学科に入学、明治29年3月卒業とともに北海道炭鉱汽船(株)に入社した。帝大在学中、同郷の野口を知り、後の生涯を共にする決定的な出会いがあった。北海道炭鉱汽船(株)では、市川は、入社とともに技師長となり、主に電灯事業に従事した。野口からの勧めもあり、三居沢におけるカーバイドの試作研究に参加し、カーバイド製造所の立ち上げに協力している。市川の伝記によれば、カーバイド製造所は、藤山・野口・市川・伊藤清次郎の4人が協力し、共同経営したと記している。当時、「カーバイド1ポンド4銭のものを、6~7銭で売り、事業拡張していった。日露戦争の最中には、旅順攻撃の爆薬にカーバイドがいるとのことで、13~14銭で売り、調子がよかった」とも記している。(図18)。

図18 市川誠次
図18 市川誠次

 野口遵は、明治39年(1906)に鹿児島県曾木電気、明治40年(1907)日本カーバイド商会を設立、明治41年(1908)8月に曾木電気、日本カーバイド商会を合併して、日本窒素肥料(株)を設立したが、このときより、市川は北海道炭鉱汽船を退社し、野口と行動をともにするようになる。
 市川誠次伝(市川保明著、昭和49年4月5日刊)では、野口と市川の人物評を次のように述べている。「市川と野口の性格は、水と火とも違っていた。生来天才肌だった野口氏は、さほど勉強もしないのに首席を争う勢いであり、着実に勉学を続けた誠次も、成績では追いつかなかったようである。「奔放」と「堅実」、両者のこの性格の差が協力を可能にした条件だったかもしれない」。 
*市川は、昭和22年(1947)4月5日逝去。行年76才。神戸に墓地あり。法名は「皆空院釈誠真」。

(5)伊藤清次郎
伊藤清次郎は、安政3年(1856)4月18日、伊藤清治とよねの次男として、仙台・河原町に出生。もともと父の清治は、仙台でも名の通った七代小西利兵衛の次男であったが、小西はもともと伊藤家の出であったので、利兵衛は清治を分家し、伊藤姓を名乗らせたという。このとき、二百両を仙台藩校(養賢堂)医学館へ献納して、士分(金上侍)を取得させた。この関係で、士籍をもつ肩書きが日常の生活や精神形成に大きく関係していった。幼少の頃より、これといった教育機関の門をくぐったことはないが、独学で、機械、電気に強い関心を示し、後に、東北の電気事業に関わっていく。明治23年に仙台市会議員、明治25年に宮城県会議員になっている。この頃、伊藤清次郎は、菅克復にこわれて宮城紡績会社の重役になっている。(図19)。

図19 伊藤清次郎
図19 伊藤清次郎

既に述べたように、宮城紡績会社は、明治16年(1883)11月創設され、翌明治17年(1884)5月に操業して以来、種々合併を繰り返し、明治32年(1899)10月宮城紡績電燈㈱に至り、大正元年(1912)12月、仙台市電気部に譲渡するまで、伊藤清次郎は重役並びに社長を務めあげた。正に仙台の電気事業の牽引役であった。宮城紡績に関しては菅克復と、宮城紡績電燈に関しては藤山常一と協力して、カーバイド事業を立ち上げるなど、電気事業の拡張に多大な功績をのこしたのである。仙台三居沢におけるカーバイド事業は、「山三カーバイド」として伊藤に引き継がれていった。
 後に伊藤は、髭をたくわえた表情が狸に似ていることから、自ら「電狸翁」と名乗り、「仙台昔語 電狸翁夜話」をまとめさせた。幕末から明治にかけての仙台の様子を知る第一級の資料となっている。
 ※昭和13年(1938)11月13日逝去。行年82才。仙台・寿徳寺に眠る。法名は「不昧院明極即中居士」。

 まとめ

 これまで宮城県の近代化遺産の1つである三居沢発電所を中心に資料発掘してきた。三居沢発電所は、宮城紡績会社の事業改善が引き金となっている。
三居沢は、東北に初めて明かりを灯したところであり、これが基で日本の化学工業を発展させるカーバイド工業の発祥地ともなっている。宮城紡績会社、三居沢発電所および三居沢カーバイド製造所の三事業体が、宮城県を工業先進県と位置づけたにもかかわらず、その後、余り進展を見なかったことは残念である。最近、三居沢を近代化産業遺産の観点から、その社会的役割を見直す動きもみられるが、より一層の踏ん張りを公的機関に期待するものである。

以 上

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