東北学院大学 工学部 機械の同窓会です。

1505大連旅行顛末記

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[さんえる43号]

大連旅行 顛末記

(15回生) 匿名希望

なし

「・・・凛として旅立つ 一朶の雲を目指し」というフレーズは、NHK『坂の上の雲』の主題歌 「Stand Alone」の一節。
四年前の大震災で途方にくれていた時、森麻季というソプラノ歌手が私達を励まそうと歌ってくれたのを思い出します。
司馬遼太郎は、黎明期の明治を必死に生き抜こうとした先人達を、坂の上に浮かぶ一朶の雲に見立て、(中国) 遼東半島を舞台にして描いたノンフィクション。
昨年9月、私たちもこの物語に刺激されて大連を訪れてまいりました。
きっかけは、当機械TG会 金野明文会長が所属する企業の協力工場が大連にあるという話から始まりました。当初は工場見学という高尚な発想でしたが、技術的な次元では、何も中国でなくても良いのではないかという話にもなり、行き着くところ・・・ただの観光旅行となってしまいました。
だいぶ遅くなってしまいましたが、今後このような企画が当会の新たな交流の場となってもらえたなら幸いと存じます。

さて『大連・旅順』は、近代日本を語る上では重要な地。
私的にも、祖父の兄弟が満州への移住を決意し移り住んだ町であったことや、伯父が仙台高等工業を卒業した後、直ぐに満鉄(南満州鉄道株式会社)に勤務して「撫順」の石炭露天掘り事業に携わった話など、もの心がつく頃から聞かせられて育ったこともあり、満州という地域には郷愁に近いものを感じておりました。
催行が決定となると、少々贅沢な旅でもいいのではないかなどという話になり、ビジネスクラスを利用しての旅行となりました。
しかし旅慣れた金野会長は、私どもツアーとは別に、ホテルならびにエアークラスなど、全く別な形で参加していただき、ツアーコンダクター役に徹して頂きました。さて、随行メンバーは、翌月ヨーロッパ旅行を控えた松田茂先輩。次いで佐藤勝己先輩 (風貌は一見旅慣れた雰囲気ですが、今回が海外デビュー。) さらに私ども夫婦という構成。今回の遼東半島の旅は、金野会長と通訳の廬艶 ( LU YAN )さんのお陰で、一昔前の「社内旅行」を彷彿とする「全てお任せ、なんでも有り」という、夢のような旅行となりました。当掲載をお借りして、お二人にはあらためて御礼申し上げます。

 1日目 

早朝、仙台空港に全員集合。
今回海外デビューの佐藤勝己先輩は、前日から金野会長のお宅に宿泊され、入念な中国酒のレクチャーを受けての参加 。仙台空港で手荷物を大連まで預けてゲートを通過したところ、佐藤先輩が心配顔。伺ってみると スーツケースのカギが見当たらないとのこと。ツアーコンダクターの金野会長に相談したところ、よくあることだから大丈夫。大連に着いてから何とかするとの事。さすがに旅慣れした頼もしい回答

(仙台空港から成田へ、そして国際線への搭乗)
仙台から成田までは、コードシェア便により1時間で到着。
大連便への乗り継ぎから、パスポートを握りしめて税関口へ移動。
しかしここで珍事
ここは日本の税関だというのに、どうしてだかS先輩だけが「英語」で質問を受けました。ご本人は・・・「さいとしーいんぐ」と答えたとか。税関係官からすると、この外人は、 どうして日本のパスポートを持っているのかと見えたのでしょうか。(あえてお名前は伏せさせていただきます。)

 さて、全員無事に税関を通過し、ビジネスクラスラウンジで「シャンパン朝食」でくつろぐこととなりました。しかし、あまりにもくつろぎ過ぎてしまい、ビジネス優先口ではなく一般搭乗口からの搭乗となってしまいました。しかし、このメンバーではこんなもの。機内では座席をフルフラットにし、CAにわがまま放題の3時間半となりました。

機内から 富士山を望む
機内から 富士山を望む

(大連空港到着と市内観光)
 大連空港へ無事到着。
ハワイやシンガポールに来たときのようなリゾート地特有のワクワク感は無く、またヨーロッパの空港のようなドキドキ感も無く、何か日本の地方空港に来たようだねぇ・・・などと呟きながら、ダラダラと他の乗客の後に続き税関口まで来ると、制服を着た女性係官。自国人(中国人)と、外人との受付口が分かれており、アゴで指図するその無愛想な対応に閉口し、ここは共産圏の国なのだという事をあらためて知らされました。中国はこんなところと割り切ってはいたものの、やはり旅行先として選んだのは間違っていたかな・・・と後悔。不安なまま出口まで来ると、元気のよい「おばさん」が近づいて来て「ANAツアーの中国人ガイドです。」とのこと。言われるままにマイクロバスに押し込まれ市内観光へと連れて行かれました。期待感がなかった分、大連の街並みには驚くこととなりました。
旧日本統治時代の建物が続く街並みに、明治村に来ているような感覚にとらわれました。もう少し近代日本史を学んできたなら、さぞかし興味深い光景になったのだろうと反省することしきりでした。
そして・・・最初に連れて来られたのは、ロシア人街(ロシア風情街)。

ロシア人街
ロシア人街

日露戦争後、日本がロシアから租借権を譲渡されたことに始まり、以来、第二次世界大戦が終了するまで、大連は「関東州」と呼ばれた日本の租借地だったそうです。ロシアの街並みということなのですが、ロシア人は前にも後にも住んでいたことはないとのこと。感覚的には何かミスマッチな、エキゾチックな建物が続く市街と感じた次第です。
続いて大連中山広場の「大和旅館(やまとホテル)」に到着
100年前の佇まいには驚くばかりで、ホテルの説明によると歴史上の人物 である、皇帝溥儀、旧日本軍人達、毛沢東、李香蘭(山口淑子。帰国後に知りましたが、翌日9月7日94歳で亡くなりました。) 東洋のマタハリと呼ばれた川島芳子が、このホテルで結婚式を挙げたとのこと。
当時そのままに保存されている由緒ある部屋に案内されると、時空を超えた不思議な感覚に捕らわれました。

大和ホテル 貴賓室にてくつろぐ
大和ホテル 貴賓室にてくつろぐ

(滞在ホテルに到着)
これから三泊する「ラマダホテル」に到着。
ここで金野会長が手配して下さった通訳兼美人ガイドの廬艶さんが出迎えてくれました。チェックイン並びに両替など・・・すべて彼女にお任せする事になりました。安心したせいか、何かこの段階で「作並」か「秋保」あたりの温泉旅館に来た感覚となりました。「ラマダホテル」は、大連ではまずまずデラックスな部類に相当するホテルということで、室内も広く滞在中わりと日本語が通じました。ちなみに佐藤先輩のスーツケースは、金野会長と廬艶さんにより「中国の鍵屋」を手配してもらい、ものの数秒で開錠してもらいました。料金が100元とのことで、これで一件落着となりました。めでたし、めでたし。

ホテルから見えたトロリー電車
ホテルから見えたトロリー電車
ラマダホテルから大連駅の秋空を仰ぐ
ラマダホテルから大連駅の秋空を仰ぐ

それぞれの部屋へチェックインしカーテンを開けると、眼下には大連の町が広がり秋空の高さには、大陸に来たんだなぁと感動しました。松田先輩と佐藤先輩の部屋からは、上野駅をお手本に建造したという「大連駅」を眺望することが出来ました。

 その夜は、金野会長、通訳兼ガイドの廬艶さんにより大連駅前の市場、デパートを散策し、100年前と近代的な面との入り混じった中国を目の当たりにしました。晩の食事は日本食。中国でも和食ブームらしく、中国式和食には驚きました。たらふく飲んで食べて・・・約2,000円もしない価格には驚きました。
これも金野会長のお陰。(感謝)

 さて 2日目 

 早々に目が覚め、朝食はホテルの中華式バイキング。訳のわからない漢字が並んだメニュープレート、何なのかわからず、恐る恐る皿に盛り、口に入れてから・・・何らしい ですよ・・・という始末。
まあ、お粥だけは美味かったでしょうか。

(ホテル 出発)
朝9時。通訳兼ガイドの廬艶さんが約束の時間に現われ「さあ旅順へ参りましょう」と一日が始まりました。
当初、2日目は瀋陽 (旧・奉天)へ中国版「危険な新幹線」で行く予定でしたが、急遽変更。この時期は中国で云う「旧盆」中秋節の休みが近いこともあり外国人は切符の購入が難しいとのことで諦めました。また、大連から瀋陽間往復という行程は、通常一泊を要するらしく、日本だと仙台から名古屋間程度の距離という事を聞き、何と無謀な事を考えていたのかと反省致しました。残念ながら、伯父から聞いていた奉天の関東軍司令部の建物や、駅舎、さらには撫順の石炭露天掘りは、次回の視察にする事と致しました。

(旅順ロシア要塞・203高地 への観光)
最初の見学は、ロシアが作った三大永久要塞と云われている、二龍山、東鶏冠山にあった旅順北東部のロシア要塞・東鶏冠山北堡塁 (ひがしけいかんざんきたほるい)を見学することになりました。

東鶏冠山北堡塁碑
東鶏冠山北堡塁碑

日露戦史に残る、特別予備隊 約2,600名からなる白襷隊(しろたすきたい)による奇襲攻撃が行われた激戦地。(日本側は約4,500名の死傷者を出し、ロシア軍も戦死者を多く出したところ。)ロシア軍は地形を巧みに生かして鉄骨とコンクリートで固めた砲台と銃座を無数に構築していたと云います。この永久要塞を取り囲む防御陣地は25kmにも及んだとのこと。
ロシア軍の兵舎内部もフェンス越しに見学することができ、日露戦争当時は二階建てだったそうですが現在は二階の床が崩れ落ちており痕跡だけを留めているだけでした。

東鶏冠山北堡塁の要塞内部
東鶏冠山北堡塁の要塞内部

パンフレットによると、連ねられた700門の砲台と32個大隊、約42,000名の守備隊が日本軍を待ちかまえていたといいます。現地を目前にすると、果敢に攻撃した日本軍が屍の山を築くだけだったということは当然のような気がしました。

乃木希典の側近である参謀達の問題もあったのでしょうが、司馬遼太郎は、『坂の上の雲』の中では、乃木希典を有能な指揮者として描いてはいないようです。

要塞内の電信室前にて、すかさず携帯を構える
要塞内の電信室前にて、すかさず携帯を構える
なし

(水師営会見所 への観光)

続いては、歌にもなった「水師営会見所」の見学。
母が口ずさんでいた歌詞を思い出しました・・・
「旅順開城 約なりて、敵の将軍ステッセル。乃木大将と会見の、所はいずこ水師営。」と云う歌。入り口左には・・・庭に一本(ひともと)なつめの木
本当にありました。植え替えられて現在3代目だそうです。さてここのお土産屋で・・・「撫順」産出の珍しい昆虫 (ハエ)が入った「琥珀(コハク)」を手に入れる事が出来ました。しかし帰国後、とある専門の方に調べてもらったところ、見事なプラスチック製の「コハク」でした。
高かったのに・・・。

水師営会見所
水師営会見所
なし
庭に一本(ひともと)なつめの木
庭に一本(ひともと)なつめの木

(203高地 への観光)
さて、次はいよいよ203高地。
山とも言えない、なだらかな丘陵という感覚。おぞましい戦場跡という痕跡は全くなく、頂上近くまで車で上がることが出来るほど綺麗に観光地化されていました。当時、203高地攻略戦は壮絶な攻防戦だったらしく、現在の標高は200mしかないそうです。砲弾攻撃で3mも山が低くなったのだそうです。しかし、頂上に続く数100mほどの急な上り坂は、徒歩でなければ上がれませんでした。

なし

今から約100年前、この山の頂上を占領するために旅順攻囲戦が展開され、日本軍約64,000名の兵士を投入し、戦死者約5,000名、負傷者約12,000名、合計17,000名という信じがたい数の犠牲者を出したとのこと。山頂にたどり着くと、広場中央には銃弾の形をした忠魂碑が建立されておりました。

爾霊山忠魂碑
爾霊山忠魂碑

爾霊山(にれいさん)と書かれており、名付けたのは乃木希典。203を中国語読みすると爾霊山になります。この山で亡くなった無数の霊に、鎮魂の想いを込めて汝の霊の山として詩の幕を閉じています。

爾靈山嶮豈難攀  男子功名期克艱  鐵血覆山山形改 
萬人齊仰爾靈山           ( 作 乃木希典 )

(爾霊山〔にれいさん〕 嶮〔けん〕なれども 豈〔あ〕に攀〔よ〕じ難〔かた〕からんや)
(男子功名 艱〔かん〕に 克〔か〕つを期す)
( 鉄血山を覆ひて 山形改まる)
(万人斉〔ひと〕しく仰ぐ 爾霊山 )

さて、旅順港の全貌は頂上まで眺めることができませんでした。
息を切らして登る間、満州事変から世界大戦へつながる歴史の過程を、私はどれだけ知っていただろうかと恥じるとともに、その犠牲の上に日本の今があるという事を改めて考えさせられました。

203高地 高射砲
203高地 高射砲
なし
旅順港を眼下に
旅順港を眼下に

(旅順旧関東軍司令部・旅順博物館への観光)
旅順新市街まで移動して、旅順旧関東軍司令部・旅順博物館の順に見学することとなりました。
関東軍司令部。1932年、満州事変後は満州国の首都である新京(現在の長春)移転するまでここが司令部だったところ。
さて、「関東軍」と云う呼称、大連は「関東州」と呼ばれる日本の租借地に由来します。日中戦争に向けて、関東軍は関東州の守備隊を前身とした軍隊でした。
満州事変後は満州国の首都である新京(現在の長春)に移転しています。

旧関東軍司令部前にて
旧関東軍司令部前にて

見学するにはバスポートが必要でした。
軍服を着た女性兵士が受付けにおり、さも見せてやるといった態度。チケットを渡した瞬間に舌打ちをされ、パスポートと見比べられて睨まれた時には、さすがに何か言い返してやろうかという嫌悪感に満たされました。司令官室の日章旗前には、いかにも悪人顔した司令官のマネキン(日本人) が空々しく、隣りには「いわゆるA級戦犯」とされた旧陸軍軍人の方々の写真も展示されており、日本人に対する反日感情には辟易としてしまいました。

なし

(白玉山塔と旅順口軍港の遠望)
白玉山へ向かう途中に「旅順駅」を見学。
ロシア風建築物で、独特な楕円形の屋根、羽毛のように嵌め込まれたタイル、精巧な彫刻、白い壁、緑の窓などの外観に異国情緒を感じました。

旅順駅
旅順駅
なし

その後、10分で白玉山に到着。
遙か旅順口軍港を見下ろす丘に到着すると大パノラマが展開しており、ロウソクのような巨大な塔(白玉山塔)がそびえ立っていました。

なし
白玉山山頂と旅順軍港の遠望
白玉山山頂と旅順軍港の遠望

旅順港の眺望を目の当たりにすると、東郷平八郎の参謀、秋山真之により計画された、ロシア艦艇封鎖作戦の全貌を手に取るように思い浮かべることが出来、それを敢行した「広瀬中佐」の一節を思い浮かべて、この日の観光を終えました。

水族館 ? での、海鮮料理
水族館 ? での、海鮮料理

この日の晩は、大連市内にて海鮮料理のディナーとしゃれ込みました。
驚いたのは、幾つもある水族館のような「生け簀」から好きな魚を網ですくい上げ、それを調理してもらうという方法。あまりにも魚の種類が多すぎて私達では選ぶことが出来ず、結局は店のお勧めの魚を調理してもらいました。
それでも青島ビールだけは、たらふく飲みましたね。

 さてさて 3日目 

さすがに3日目の朝食ともなると、中国語は読めなくても、大体何なのかが分かり、それぞれの好みでの朝食となりました。しかし美味しかったのは、やはり・・・お粥だけ。
 本日は大連市内観光と買い物。ついでに路面電車を乗り継いで「大連星海公園」へ行くこととなりました。

(巨大地下商店街から大連中山広場への散策)
まずは、金野先輩の案内により「勝利広場」への散策。
この広場は大連駅前にある巨大地下商店街で、ショッピングセンター、飲食店街が地下4階まで広がり、迷子になるほどに広い巨大地下街と云ったところでした。
敷地面積は2.7万平米、建築面積は14.7万平米、地下連絡通路で大連商場、天津街などにつながっているとのこと。
何か「近代的な闇市?」という地下街を抜けて、やっと地上に上がると・・・いつの間にか、初日に見学した中山広場に行き着いておりました。
綺麗な放射状に造られた、旧大和ホテル、旧横浜正金銀行、旧大連警察署、旧朝鮮銀行大連支店、旧関東逓信局、旧横浜正金銀行大連支店、そして旧大連三越店など、外観が戦前そのままの建造物群に、同胞が住んでいた遠い大正、昭和の姿を垣間見た気がしました。

なし

(路面電車を使っての大連星海公園への散策)
大連市西部に位置する大連星海公園(日本統治時代は『星ヶ浦公園という別荘地』)を目指して、路面電車を2線乗り継いで向かいました。
この「路面電車」、古い車体と新型の車体の両方が運行されており、古い方は80年前の日本の木製車両。両方とも乗車距離に関係なく、料金は1元でした。

80年前の日本製木製車両
80年前の日本製木製車両

敷地面積は4.5万平米の大連星海公園に到着。とにかく歩くのが嫌になるほどに広い湾岸公園と云ったところでした。
スマホを見たところ、今日半日で50,000歩ぐらい歩いておりました。
私にとっては驚異的な数字。足が棒! の領域を超えてしまいました。

大連星海公園散策
大連星海公園散策
大連星海公園散策
大連星海公園散策
なし

帰りは、知らない乗客との「相乗りタクシー」を利用することとなりました。行き先が違うのに料金はダブっても、目的地まではそれぞれに支払うという中国の習慣には驚きました。日本人の感覚からすると何か損をしたような、合理的な気持ち。

(大連、最後の晩餐会)
本格的な中華料理晩餐会を、中山広場近くの豪華店で開催。
通訳の廬艶さんへ感謝しつつ、金野先輩お勧めの「白酒」を皆で頂きました。

大連最後の晩餐
大連最後の晩餐

料理も酒も最高。「白酒」はアルコール度数が大変に高く(ウオッカと同じくらいの度数)、私には味がよくわかりませんでした。

大和ホテル ライトアップ
大和ホテル ライトアップ

ホテルまでの帰り道は中山広場を通り、ライトアップされた各建物を見ながら帰途に就きました。
幻想的だったのは旧大和旅館(大和ホテル)。全員が見とれてしまい道に迷ってしまいました。

大連 中山広場で道に迷う
大連 中山広場で道に迷う
なし

ホテルに着いたらもうグッタリでした。 長い長い・・・一日でした。

 最終日 4日目 

帰国は「昼の便」ということもあり、のんびりと朝食を取り大連駅裏にある市場街を散策いたしました。
何か昭和初期の「闇市」と云った胡散臭い雰囲気。
ここでも、道に迷いながら買い忘れたお土産を買い漁るといったこととなりました。

なし

( 帰 国 )
初日に迎えに来た、「ANAツアーの中国人ガイド」がホテルに迎えに来てくれてチェックアウト。
空港にて通訳兼ガイドをして下さった廬艶さんにお別れをして、帰国搭乗手続きをしました。
そして大連空港のVIPラウンジで「お茶」をして、優先搭乗口から・・・
今度はゆうゆうと搭乗しました。
機内では、また座席をフルフラットにして飲み三昧。
皆様のお陰で楽しい「視察旅行」を致して参りました。

次回は、今回行くことが出来なかった中国東北部でしょうか。
それとも・・・
「郷愁のシンガポール」などはいかがでしょうか。

なし

( 今年度も9月上旬を予定しております 【企画】●●までお申し込み下さい。)

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