東北学院大学 工学部 機械の同窓会です。

2401a工学部誕生秘話

東北学院大学工学部機械TG会 第31回総会 記念講演会

講演題目 「東北学院大学工学部誕生秘話」

東北学院大学名誉教授 鶴本 勝夫 先生

《 講演内容要旨 》
 これから東北学院大学工学部誕生について、皆さんが意外と知らない理由を2、3お話申し上げて、工学部の現在に至るまでの経緯をお話していきたいと思います。
工学部の誕生秘話ということですけれども、二つの構成要素があります。
その一つは、土地ですね。
多賀城キャンパスをどういう経緯で手に入れたのかということが一つと、もう一つはやっぱり教員のことですね。
私も工学部第1回生の学生でいて、そのまま残ったものですが、学生でいた時は分からないのですが、教員として同じ職場に居ると、「貴様お前」というような感じでね、色々とある訳ですよ。
あんまりその陰の部分のお話は、今はちょっと出来ないので、それは懇親会の方で質問があれば、私の敵は誰かというのをこっそりお話したいと思います。
 まず、本題に入りたいと思いますが、私はちょっと歯が半分無いものですから、言葉がはっきりしないと言うことで、話が聞きにくい所があるかもしれませんがご容赦ください。
実は、東北学院時報の2022年1月15日号に、「工学部誕生秘話」ということで話を少々書いているのです。
恐らく、皆さんは読まれていないと思うので、改めて、私からお話申し上げることにしたいと思います。
まず、土地の件ですが、皆さんも多賀城海軍工廠というのをだいぶ耳にしていると思います。
この多賀城海軍工廠が出来たのは、昭和18年、1943年頃ですね。実際にこの土地の整地をしたのは、当時朝鮮から連行されて来た人たちと、もう一つは、宮城監獄所、即ち刑務所にいた囚人たちだったのです。
それから、その当時タコ部屋での強制労働と言いますか、それを常としていました菅原組の労働者たちでした。
この人たちが結局、半強制的に連れて来られて、あのキャンパスを整地しました。
多賀城海軍工廠が出来る前のことですので、私たちの年代でないと分からないと思うのですが、宮城県の代議士で保科善四郎さんという人がいたんですね。
恐らく自民党系だったかと思うのですが、その保科善四郎という人は、船岡の火薬廠を誘致した人です。この保科さんが多賀城海軍工廠の誘致の件について、その当時、鈴木只重という横須賀の海軍建築部長をしておった人に、対して、当時の多賀城村の村長だった後藤一義という人に話をさせて、何としてもその土地を手に入れようとしました。
 ところが、多賀城海軍工廠は二つの大きな土地に分かれておりまして、一つは北区と南区という二つ、多賀城キャンパスは大体、北区に入るのですが、その北区は、皆さんよく耳にすると思いますが、零戦つまり、零式艦上戦闘機、その零戦の20㎜機銃の弾丸を作っていた加工部というのが北区にありました。
南区というのは、機銃と称しまして、零戦の機銃そのものを組み立てておりました。
そして、出来たものをある程度試射しなければならないのですが、その射撃場が多賀城の王子コンテナというところです。
その王子コンテナ内には200mの射撃場がありまして、そこで出来上がったものを試射するわけです。
多賀城キャンパスは、多賀城海軍工廠の男子工員宿舎並びに旧制中学勤労動員の学生寮であったと言われています。
昔の旧制中学は現在で言えば高等学校に相当しますよね。その人たち、特に仙北の古川高校(昔は古川中学と言っていました)とかですね、そういう学生たちが動員されて来たというわけです。
完成した機銃は、工場内から引き込み線で、東北本線の山王駅を経由して、横須賀の海軍の軍需部倉庫に搬入され、そこから全国にそれが配送されていったといういきさつがあります。
 ところが、日本が敗戦になりまして、その後は米軍が管理しまして、ちょうど今の多賀城市役所あたりが、米軍の中枢ということだったらしいのです。
さらに米軍が撤収しまして、そのあとは大蔵省の東北財務局が管理して、それから民間に払い下げになったのですが、それ以降が東北学院と関係するようになりました。
民間に払い下げになる時に、当時の宮城県副知事だった大槻七郎さん、あるいは県の出納課長をされておった三沢房太郎さんなど、ちょうど学院出身の方々が仲介というか中に入りまして、学院に譲渡したらいいのではないかという話を進めたということです。
ところがですね、皆さんはご存じでしょうか。
昔ですね、多賀城キャンパスの中に「よろずや」というお店がありました。
 そのよろずやのご主人が、実は、横須賀の海軍経理学校を経てその後、東北財務局に勤務していたのです。
よろずやのご主人は、橋本良造さんと言います。
多賀城キャンパスには、今は塀がありますが、昔は何もなくて、外から自由に人が入れました。そういうような状態ですから、よく車で仲良くなったアベックが校内に入って来ました。私は横目で見て何をしているんだと思いましたが、そんなことが度々ありました。
そういう事があったものですから、実は、そのよろずやさんのご主人が、近辺の見回りをお願いされていました。
東北学院が多賀城の土地を手に入れるという、現実的な登記簿上の関係はそういうことです。今度は人に関係することです。
東北学院では私立の工業高等学校、これを作りたいという考えがあったのですね。    
 それは月浦利雄先生、二番町の校長だった人で、その校長先生の理想が、少人数教育をしたいという考えがあったのです。しかも、工業(・・)高等学校を建てたいということもありまして、宮城県の県立工業高等学校、通称、県工ですね。
その県工の校長先生をしておりました福田鉄太郎という先生、この方に工業高等学校の校長になっていただきたいということで、その福田先生を職員として採用したわけです。
ところが、その福田先生が実は歯車関係で有名な成瀬政男先生と姻戚関係だったのでした。
 非常に近い関係にありましたものですから、成瀬先生に「東北学院で工業高等学校を作りたい」という話をした時に、成瀬先生が工業高等学校を作るくらいならば、工学部を作ったほうがいいのではないかというように進言されました。
実は、話が繋がらないかもしれませんが、月浦先生の少人数教育という事と小田忠夫先生は東北学院大学が単科大学だったため、総合大学にしたいという考えがありました。ですから、月浦先生や小田先生はちょうど軌を一にして、また、その成瀬先生が東北大学を退任されるに至って、ちょうど三者の考えが符合しまして、それで工学部を設置することになりました。
では、そのためにはどうしたらよいかということで、昭和36年4月に工学部設置委員会というのを設けました。
 これはですね、8名の先生方でこの委員会が構成されました。
今、その名前だけをちょっと羅列しますが、成瀬政男先生、棚沢秦先生、和田政信先生、遠藤義夫先生、野邑雄吉先生、福本喜繁先生、仁科存先生、小柴文三郎先生の8名です。
もう少し詳しくお話し申し上げますと、成瀬先生は千葉県の館山の出身の方で、東北帝国大学を卒業されまして、のちに教授になられます。
 この先生の専門は歯車関係で、特に歯車関係の理論と言いますか、歯車歯形の研究を第一と致しました。
実は、この先生のライフワークがマイスター制というところにありまして、それで実は、東北学院大学でも初代の工学部長に成瀬先生を招聘するという考えでいたのですが、自分のライフワークにウエイトを置いたのだと思いますが、途中で東北学院大学の方は断りまして、中央職業訓練大学校の学校長として行かれました。
それで、仙台を去られたのですが、工学部設置当時の教員につきましては、成瀬先生が中心となり、教員を揃えたそうです。
それから、棚沢秦先生という人は、仙台の木町通にお住まいになっていまして、東京帝国大学を卒業にされて後、教授になられました。内燃機関が専門です。
ガスタービンその他内燃機関などに関する本、教科書なども書かれています。
 それから、和田政信先生、唯一この人はクリスチャンで、京都の青山という所の生まれで、東京帝国大学の電気工学科を卒業され、のちに教授になられました。専門は真空管とか画像工学でした。
遠藤義夫先生、この先生は宴会などで、挨拶をお願いしますと5分くらい盃を持ったままの状態で待たされるというくらい、話が長かったのだそうです。
 その遠藤義夫先生は、仙台市の原町で生活されておりました。
東北帝国大学電気工学科を卒業して、その後日立製作所にお勤めされて、強電部門で自動制御を専門とされていたそうです。
初代の電気工学科長になられました。
野邑雄吉先生、一見日本人ではないような感じですね。
ロシア人系の血筋をひいています。この方は、山口県の柳井市のご出身で、東北帝国大学の理学部の物理学科を卒業されております。
初代の応用物理学科長で、この野邑先生は、東北大学よりも先んじて、東北学院大学の方に応用物理学科を作ったということをいつも誇らしげに話していたとのことです。
それから、福本喜繁先生は、物理学も一般物理学の教科書などをお書きになられました。
 香川県高松市のご出身で、東北帝国大学の理学部物理学科を卒業され、SKK仙台高等工業専門学校の教授をされ、それから東北学院大学の教授になられました。同じように一般物理学の教科書等を著されました。
先生は、冬に日本海に雪がいっぱい積もってしまうと、日本が半分傾いてしまうというような事を平気で話すという記憶があります。
それから7人目は、仁科存先生、存在の存という字を書いてタモツと呼ぶ先生です。
和歌山県出身で東北帝国大学の理学部物理学科を卒業されて、磁性が専門だったのです。
 最後の8人目は、小柴文三郎先生ですね。この方は、機械工学科の先生でもあったのですが、東京の新宿区の生まれで、東京帝国大学の機械工学科を卒業され、SKK、東北大学、山形大学の工学部の教授を経て、東北学院大学の工学部に来られて、初代の機械工学科長に就任されました。専門は材料力学でした。
こういった先生方が、工学部を作るにはどうしたらよいかということで、工学部設置委員会を設置して、8人が話し合って決めたということです。
設立当時は、3つの学科しかありませんでした。
機械と電気と応用物理学科の3学科でした。
校舎もあまり出来ていなくて、米軍のアメリカンスクールだった所を教室代わりにしていました。実は、我々が困ったのは、トイレに行った時に、便器をどう使ってよいのかわからないことでした。
今では、当然、馬蹄形(の便座を)をどうやって使ったらよいかわかりますが、
これは、あれにまたがってすればよいのだという、知ったかぶりが出て来たりしましてね。いや、それは、そうではないのだとか、色々な考えが出ました。
そのような話を今度は、川島順先生や須田稔先生などの英語の先生から、いや、それはこうするのだと教えられたりしておりました。
そもそも、米軍が使っていた、シャワーとか洋式のものには、学生は戸惑っていましたね。
ところで、仙石線は単線だったのですよ。
実は、仙台から陸前原ノ町までが複線で、その先が単線でしたから、停車駅で向こうから電車が来るのを待っているような状態で、学校に来るのに非常に時間を要したものでした。
ほんとに、色々な面で不自由な点は多々ありましたけれどね。
クラブもそんなにあった訳ではありませんね。自動車部とかはありました。
 それから、今では考えられないことですが、学生らが、工場見学と称して、よく、近郊の工場に自分たちが企画して行きました。
今ですと考えられないような工場実習なんかも、仙台近郊だけでなく、立川のヤンマーディーゼルとか関東のあちらの方にも、それが、全員行ったんですね。
ですから非常にヤル気は、あったのかなと思っております。
ただ、堅い話はそうですが、そうですね、中々一回生も野蛮な行動がありました。
化学実験なんかやっておりますと、この実験なんか、やっていられねえと言うような事で、青砥研の向かいが化学実験室だったかなと思いますが、実験中に窓から二、三の学生が、外に出て行って、よく煙草をふかしていたとかですね。
ただ、先生方と学生らとの関係は、距離と言いますか非常に近いというか、先生とも個人的に親しくなり、先生方のお宅を訪問するのです。
訪問の目的は何かと言いますと、飯を食わせてもらう、それが目的でした。
特に若い先生方のお宅を訪問して、ご馳走になるというのがありましたね。
何か、取り留めのない話をしまして、申し訳ありませんが、以上で今日の話は終わりにします。
 ご清聴、有難うございました。

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